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哲学
ここではヴィクトール・フランクル、三島由紀夫、よき人生について、福沢諭吉、ゴードン・ゲッコーにフォーカス


ヴィクトール・フランクル

『あらゆるものを奪われた人間に残された最後の自由とは、
どんな状況にあってもその中で自分の態度を決めることだ。』

『祝福しなさい。その運命を。信じなさい。その意味を。』

『人生におけるミッションというのは、作るものではなく発見するものである。』

『人は人生の意味とは何であるかを問うべきではない。むしろ自分が人生に問われていると理解すべきである。
一言でいえば、すべての人は人生に問われているのだ。』

『条件に屈するか立ち向かうかは自分で決められるのだ。
最終的な自己決定権はわれわれの側にある。』


フランクル心理学誕生の日は、1909年、彼がまだ四歳の日のある晩に訪れます。眠りに落ちる直前、少年フランクルは突然、次のような考えに襲われたと言います。
「いつかは僕も死ぬんだ。そうなれば、僕はもう生きていることができないんだ。だとすれば、いったい、僕が生きていることの意味って何だろう・・・」
その日から、少年フランクルの心には、この考えが何度も繰り返しやってきました。そして「自分はこの問いに対する満足のいく答えを見つける義務があるように感じた」とフランクルは語っています。

高校生になったフランクルには、還元主義に対する反感も育まれつつありました。次のエピソードがそれを物語っています。「私は、かつて私が高校生だった時、理科の教師が人生は結局、有機体の酸化過程にすぎないと説明したときの反感を今も覚えている。私は立ち上がり、熱烈に次のように質問した。『もしそうならば、人生にはどんな意味があるのですか?』こう質問することで、私はそのとき初めて自分の精神的主体性を自覚したのかもしれない」。17歳の時、彼は早くも彼が通っていた成人学校の哲学の講師をしている。フランクルが選んだトピックは、何と「人生の意味」だ。しかも17歳の時のこの講義で、フランクルはすでに次の二つの論点を主張していたという。

@人生は、人生の意味についての私たちの問いに答えてはくれない。人生は、その問いをむしろ私たちに投げかけてきている。何が意味に満ちているかという問いにこたえなくてはならないのは、私たち人間のほうである。

A人生の究極的な意味は、私たちの理解できる範囲を超えている。けれどもそれは、それを欠いては私たちが生きていくことが出来なくなるような何かである。


フランクルが四歳の時に初めて抱いた「人生の意味」についての疑問。その問いを、彼は17歳の時点でここまで問い進めていたのです。そしてこの時点で、「人生が私たち人間に問いを発してきている。だから私たちはそれに答える責任がある」というフランクル心理学の基本仮説は、すでに形づくられていたのです。




フランクルは、人間が実現できる価値は、創造価値、体験価値、態度価値の3つに分類されるという。

創造価値とは、人間が行動したり何かを創ったりすることで実現される価値である。仕事をしたり、芸術作品を創造したりすることがこれに当たる。

体験価値とは、人間が何かを体験することで実現される価値である。芸術を鑑賞したり、自然の美しさを体験したり、あるいは愛する人と交流している時に実現される価値である。

態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である。病や貧困やその他さまざまな苦痛の前で活動の自由(創造価値)を奪われ、楽しみ(体験価値)が奪われたとしても、その運命を受け止める態度を決める自由が人間に残されている。
フランクルはアウシュビッツという極限の状況の中にあっても、人間らしい尊厳のある態度をとり続けた人がいたことを体験した。フランクルは人間が最後まで実現しうる価値として態度価値を重視している。
フランクルは、収容所においてさえ信じがたいほどオプティミスティックな態度を示しました。いかなる状況にあっても、失われたもの、奪われたモノよりも、まだ残されたモノに目を向け続けたのです。
「アウシュビッツにいたときでさえ−そこで生存できる見込みは二十九に一つだと思っていたのですが−私が生存できる見込みが百パーセントないと誰も言うことができない以上、たとえ確率は低かろうと、生き続けるためにできることはすべておこなう責任があると感じていました。」
むしろ、彼は、つぎのように自分自身に言い聞かせ続けたといいます。「おまえはこれまで、人生の意味について書いたり語ったりしてきた。そしてこの人生の意味は無条件のもので、いかなる状況においてもそれは失われることはない、と言ってきた。たとえ苦しみが取り除かれない時でも、その苦しみから何らかの意味をつかみ取ることができるはずだ、と。・・さぁヴィクトール、今度はおまえ自身がそれを生きる番だ。」
 収容所では、「未来における拠り所」を見いだした人間、未来に於いて「自分を待っている人やもの」を見いだすことの出来た人間は、強靱な精神的抵抗力を獲得し、生命力を取り戻していったということも示されています。フランクル心理学のこの基本仮説は、彼が収容所の中でおこなった臨床実践の中で証明されたのです。
「もう人生からは何も期待できない」と考えて自殺を試みた二人の男性の囚人。彼らにフランクルは次のように語りかけました。「たとえあなたが人生に何も期待しなくても、人生の方はまだあなたたちに期待しているはずだ。何かがまだあなたたちを待っているはずだ」と。「自分を待っている仕事や、自分を待っている愛する人に対する責任」を意識した人間は、自らの生命を放棄することは決して出来ません。なぜなら「彼は、まさに自分の存在の『何故』<理由>を知っていますし、したがってまた『ほとんどいかなる如何ににも』耐えることができるから」なのです。

======フランクルの幸福に関する考え方===============
フランクルは、私たちの心に潜む幸福の法則についていいます。幸福の追求は幸福を妨げる。人間の心は自分の幸福にこだわり、それを直接追い求めている内は、決して本当に満たされることはない。幸福を追い求めても、それは必ず失敗に終わる、とフランクルは言うのです。フランクルは「幸福」ばかりでなく、快楽、自己実現、健康、至高経験などについても、これらはそれ自体を追求すれば必ず挫折せざるをえなくなる破壊的性質を自らのうちに潜んでいる、と指摘します。自分の幸福を望みそれを追い求め始めた人間は、結局、自分の望み通りの幸福を手に入れることはできなくなるはずだ、人間の心はそのようにできている、とフランクルは言う。ではどうすればいいのか。どうすることもできない。ただ、幸せになろう、幸福を手に入れようというこだわりを捨てて、なすべきことをとりくむのがいい。そうしているうちしかるべき時が来れば、自ずと幸福は手に入るはずだ、というのがフランクルの答えです。「もし幸福になる理由が存在すれば、自ずと、つまり自然発生的かつ自動的に、幸福は結果として生まれてくる。このことが、人間が幸福を追求する必要のないことの理由である」
たしかに、幸福は、なすべきことに無心に取り組んでいるうちにその結果として与えられるものであって、それそのものを直接追い求めても手に入るものではありません。「幸福は、決して目標ではないし、目標であってはならないし、目標であることもできない。幸福は結果にすぎない。」喜びも同様で、「得ようと務められるものではない。喜びそのものを『欲する』ことはできない。喜びは自ずと沸いてくるものである。」
この順序を間違えて、人が「自分の幸福」「自分の喜び」を直接追い求め始める時、その「幸福」や「喜び」はどこまでいっても得ることができなくなってしまいます。そして「永遠の不満の状態」に置かれてしまうわけです。それは、人間の本性に逆らった愚かな生き方でしかありません。自分の幸福を望みそれを追い求める人間は、どこまでいってもそれを手に入れることは出来ないこと。人の心が本当に満たされるのはむしろ、自分や自分の幸福のことを忘れ去り、自分のなすべき事、自分にとって意味のあることに無心で取り組んでいる時であるということ。−−−−人生のこの逆説的真実は、古来、哲学者たちによって「幸福にパラドックス」と呼ばれ、その罠に落ちることのないように戒められてきたものです。フランクルもまた、これと同じ洞察に立ってみずからの考えを展開しているわけです。

=========意味への意志=================
意味への意志は、フランクルが人間の根本動機とみなしたものです。人間は、人として生まれついたはじめからその生命の終わりに至るまで、意味と目的を発見し、実現せんとする基本的努力」を絶えず繰り返していくものだ、とフランクルは言うのです。快楽や社会的な「力」への意志は、ただ、「意味への意志」を満たすことに挫折した場合にのみ、その代替物として生まれてくるというのです。「快楽」すなわち、心地よさや気持ちよさ自体はもちろん、よいことです。
けれどもそれは、本来「意味実現の副次的効果」にすぎません。つまり「自分はなすべきことをやった」とか、「意味あることをした」という時、その結果として快楽は生まれてくるのです。このことを無視して、「快楽」それ自体を直接に追い求めると、本末転倒になります。そのようなことは、「意味を実現したい」という本来の欲求が満たされない場合にだけ生まれてくるものだとフランクルは言うのです。
同様に社会的な「力」、すなわち権力もそれ自体では、悪いものではありません。むしろ権力は、持っているにこしたことはありません。権力を行使しなければ、なすべきことを行えない場面はいくらでもあるからです。フランクルも「意味の実現が、ある種の社会的および経済的な諸条件前提に拘束されている限り、それは目的のための手段」として必要だと言っています。
けれどもそれは、本来「意味実現のための手段」でしかないはずです。つまりこの社会の中で意味あること、なすべきことをするための「手段」として、権力ははじめて活かされるものであるはずです。にもかかわらず、権力そのものを直接に追い求め始めるとこれもやはり本末転倒で、そのようなことは「意味を実現したい」という本来の欲求が満たされない場合にだけなされ始めることだとフランクルは言うのです。
 このフランクルの指摘はそのまま、先に述べた現代日本社会の実情に対する痛烈な批判となります。現代の日本は、ここでフランクルが取り上げた快楽と権力そしてこの二つの象徴的存在である「金銭」を盲目的に追い求めているように思えます。仕事の腕も立ち、人がうらやむほどの地位を獲得した人物が、金欲に目を眩まされ人生を転落していく様をまのあたりにすると、誰でも「いったい何のために」といいたくなるでしょう。そうなのです。この「何のため」を見失っているからこそ、現代の日本人は、子供から大人に至るまで、金銭、暴力、権力という刺激を盲目的に追求してしまうのです。日本国民の大半が「自分は何をなすべきか」「どこへ向かうべきか」という意味や目的を見いだせず、大きな虚無感に包まれています。先の先まで見えてしまった人生を、ただ淡々とこなすだけの毎日がどこまでも果てしなく続いていくかのような圧倒的な閉塞感が漂っています。こうした状況の中で、それでもいきていかなくてはならない私たちは、自分の感覚をすっかり麻痺させてくれる強い刺激を求めてしまいます。様々な病理現象は、このような文脈の中で理解されるべきものなのです。

フランクルの「意味への意志」論によれば、人間は結局「自分はこの人生でなすべきことをおこなっている」「意味のある人生を送っている」という核心を求めていく存在です。そしてここが大切なのですが、フランクルの言う「意味」「なすべきこと」は、決して主観的な心理状態のことではありません。そうではなく、私を超えた「向こう」から、これをなすべきだ、この意味を実現すべきだと呼びかけてくるものです。そして「意味への意志」は、私を超えた「向こう」からのこの呼びかけに呼応する心の働きなのです。これに対して、マズローの「自己実現」論では、このような「私を超えた何か」とのかかわりは視野に入れられていません。ただはじめから自分の内側にある可能性を実現していく、それだけのことです。「それが一体何なの?」とフランクルは言うわけです。フランクルは、意味を求めようとして求められないでいる挫折の結果、現代人は「自己実現」を好むといいます。自己実現の欲求も権力の意志についてと同様に、意味への意志を見たそうとして満たし得ないその代替物として快楽や権力を追い求め始めるのだ、と指摘しています。

=============人生の意味==============
人生の意味の有無は、その長さや子孫のあるなしとは関係がない。たとえ死が訪れるとしても、そのはかない人生それ自体に意味があるのならそれはやはり有意味と言えるし、意味がないのならそれは依然として無意味なままである。このようにフランクルは言う。たとえ人類がいつかは滅ぶとしても。人生は一瞬の花火のようにはかなく、人類の歴史もまた永遠に比べればほんの一瞬のできごとにすぎない

あらゆる人間がその人生のすべてをあげて実現すべきような、絶対的な「意味」や「目的」の物語など存在しない、とフランクルは言う。生きる意味を求めて思い悩む人は、おうおうにしてこのような「すべての人間に妥当する人生全体の意味」を求めがちになります。しかしそのような「人生の普遍的意味は存在しない」とフランクルは言うのです。にもかかわらず、フランクルは言う。無から来て、無へと行くにもかかわらず、自らの現存在を肯定するところに、言い換えれば、自分はしょせん、いずれ消えいくはかない存在であるとしりながら、それでもあえてなお人生を肯定するという「悲劇的英雄性」に人間の偉大さがあるのだ、と。しかしでは、いったいどうやってそんなことが可能だというのだろう。フランクルによれば、それはひとえに、次の「人生の根元的事実」をどれだけしっかり自覚し体認しうるかにかかっています。ここがフランクル心理学のもっとも肝要な点なので、しっかりかみしめるように読んでいただきたい。
「世界体験の根元的な構造を振り返るために一歩退くと、人生の意味を求める問いに、次のようなコペルニクス的転換が生じる。人生が人間への問いを発してきている。したがって人間は、人生の意味を問い求める必要はないのである。人間はむしろ、人生から問いかけられているものなのであって、人生に答えなくてはならない。人生に責任を持って答えなくてはならない。そして人間が答えるこの答えは、人生からの具体的な問いに対する具体的な答えでしかありえない。」
人生がといかけてきている。人生そのものが人間に時々刻々と問いを発してきている。「人生からの問いに答える」−つまり毎日の生活の中で自分に送り与えられてくる「なすべきこと」に、その都度全力で取り組んでいくならば、そしてそのような生き方を日々実践を通して体得し血肉化していくならば、そこで初めて「まぁ、生きる意味を問う必要などなかったのだ」と、しみじみと実感されてくる瞬間があるのです。先の引用文でフランクルが、「人間は人生の意味を問い求める必要はない」といっているそのことが、あぁこのことだったのかと、実感され体感される時が訪れます。人生からの問いは、各人の足下に、絶えず送り届けられているのです。だから人生の各々の状況には、その時その人によってしか実現しえない要請が必ず潜んでいて、そしてその人に見いだされ実現されるのを待っているのだとフランクルは言います。人生はどんな時であれ、「なすべきこと」「実現すべき意味」がなくなるとことは決してない、といいます。その人によって発見されるのを待っている。これは一人残らずあらゆる人に当てはまる人生の真実です。フランクルの言う「意味」は、一回限りの「時の要請」であり、「今・ここでなすべきこと、という具体性において、その都度人間に与えられてくるもののことなのです。そして、この「今・ここ」でほかならぬおまえがなすべきだという一回性と独自性とが「使命の絶対性を形成している」とフランクルはいいます。「人生が一度きりであることに加えて、一日一日が、1時間1時間がそしてこの一瞬一瞬がやはり一度きりのものであると言うことが、人生に重みを負わせているのである。もしこの一度きりの要求が実現されなかったならば、それは失われてしまう。その時間は永遠に失われてしまうのである。逆に、その瞬間が行かされ実現されるなら、それはまたとない仕方で拾われて現実となったのだ。そしてこの実現された時間は実現されたまま、永遠かつ確実に保存され続けるとフランクルは言います。フランクルの言う「意味」とは、このように、その人によってしか満たすことのできない、またそれを実現する機会は二度と巡ってこない「時の要請」ですその意味を実現する機会は二度と巡ってこず、したがってその機会は永遠に失われてしまいます。つまりフランクルの言う「意味」とは、人間が時々刻々直面するあらゆる状況に潜んでいて、「これを見出し実現せよ。この状況の真の意味はただ一つしかないし、この意味を実現しうるのはあなたしかいない。しかもこの意味を実現する機会はたった今をおいて他になく、もしあなたが今それをしなければ、その意味は永遠に実現されないまま失われてしまうのだ・・・」
他の誰でもない「私」のことを必要とし、「私」によって発見され実現されなければ、永遠に失われてしまう。。。


============ 苦悩の意味 ==============
成果がなかったということは意味がなかったということを意味しない。このことはもし人が自分の過去の生活の恋愛の体験を観察する場合にも明らかになる。もしある人間に彼の不幸な恋愛の体験を無に帰してしまってよいか、即ち不快感の強い苦悩に満ちた体験を彼の生活から抹殺する容易があるか、聞いたならば、、彼はおそらく否というであろう。即ち苦悩に満ちているということは人間にとっては満ち足りていないということではない。反対に人間は苦悩の中に成熟し、苦悩において成長するのであり、恋愛の成功が彼に与えたであろうものよりもより多くのものを苦悩は人間に与えたのである。
一般に人間は彼の体験の快不快の特性を過大評価する傾向がある。人間がこの特性を重要だと思うことは運命に対する不当な愚痴っぽさを生み出すものなのである。既述のごとく、人間は多様な意味に置いて楽しみのために地上に在るのではなく、また快感は人間の生命に意味を与えることがないのである。それ故にまた快感の欠如していることも生命から意味を取り去ることはできないのである。

============ 中年期の哲学 ==============
若い人には、次のような問いを考えることが役に立ちます。
「自分がほんとうにしたいことは何か。自分の人生の夢(目標)とは何か」
「どんなふうに生きれば、自分の可能性を生かすことが出来るだろう」
これはいわば「自己実現」の問い、自分の希望や願望を明確にする問いです。
けれども中年の人には、もはやこのような問いは役に立ちません。
人生の「折り返し地点」に達し、いよいよ人生の終着点に向かって歩み始めた中年の人に有効な問いは、むしろ次のような問いです。
「自分は何をする必要があるだろう。私は残された人生で、何をすることを求められているのだろう
「自分の人生を意味あるものとして完成させるために、私は残り人生を何に使いどう生きるべきだろう」
人生に目覚めた中年の人は、自分がそこへ向かっている人生のゴール、つまり「死」の向こうから、自分にこのような問いが発せられてきているのを感じるはずです。
この問いは、もはや「自己」実現の問いではなく「意味」実現の問い、まさにフランクル心理学の問いなのです。
「自分が何をしたいか」ではなく、「人生で自分は何を求められているか」を考えるフランクル心理学。それは中年期以降にますますその必要性を増してきます。

============ 老年期の哲学 ==============
フランクル心理学では、「過去」とはその人が「なしたこと」の一切が何ら失われることなく、そのままの形で永久に保存され続ける「貯蔵庫」のようなものだと考えます。過去になされたこと、体験したことは、それが過去のものであるからこそ、何ものにも邪魔されることなく確実にそこに刻まれ永遠にとっておかれる。フランクルはそのように考えるのです。

============ 人間存在の本質特徴「実存」 ==============
ここで「実存」というのは、自分に与えられた現実や運命に対して「自らある態度を取ることができる」ということです。
「〜にすぎない」という還元主義の人間像において人間は、「身体的、心理的、社会的状態や状況によって支配されたロボット」であるかのように見なされます。つまり自分に与えられた事実や条件に操られるがままの存在のようにみなされています。けれどもフランクルによれば、「人間は決して生命の力や社会の力によって一義的に決定されてはおらず、むしろそれらの力からは自由であって、自己決定に対する責任を持っている」人間は「生物学的なもの(たとえば民族)、社会学的なもの(たとえば階級)、心理学的なもの(たとえば性格類型)の制約につながれてはいても、それに盲従することをやめる」ことのできる存在なのです。
フランクルは次のように考えます。生物学的なものと心理学的なものとは、人間の生命的素質を構成しており、そしてこの生命的素質はその人の置かれた社会的状態とともに人間の「自然的地位」を構成している。しかし人間は、この自然的地位から身を引き離して、それに対して「人格的態度決定」をおこなうことのできる存在である、と。こうしてフランクルは、「生物学的事実、心理学的事実、、社会学的事実を超えた人間の実存」へと注意を喚起していくのです。
人間は自らに与えられた生物学的事実、心理学的事実、社会学的事実のそれぞれから自分を引き離し、それに対して「ある態度をとることができる」自由を持った存在です。フランクルが実存という言葉で言わんとしたのは、まさにこのことです。

============ 人間の自己超越性 ==============
フランクルが人間の本質をとらえる際に欠かせないとベースに据えるのは、人間の「自己超越性」です。
フランクルによれば、まず、人間は動物と異なり、種に固有の環境に閉じこめられていません
「環境に閉じこめられた動物と違って、人間は『世界』を『持って』いる。いずれの環境をも突き破って、世界そのものへと向かっている。」
フランクルの自己超越性の考えは、平たく言えば「忘我」を説いているわけで、この点に限って言えば、東洋思想に近い。

============ 人生の問い ==============
「いかなる人間も、ある何らかのことをこの世界で成就するために召命されている。いかなる人間もその一人ひとりが世界から必要とされている。」フランクルにおいては、おのおのの状況とは「呼び声」であるとされた。いかなるときもいかなるところにおいても人間が呼び声を聞き取ってそれに答えるという使命を担っている。この呼び声は、それが沈黙の声であろうとも、「お前は今ここで何をすべきか」という問いとしてわれわれの内奥に響くのである。重要なのは、自己反省ではなく、反省以前に他者に専心する行為それ自体であり、この行為において本来的な自己が実現される。フランクルは、自分を忘れることについて、
「自分をうとんじ過ぎたりまたは自分に構いすぎたりするより遙かに重要なのは・・・・自分をすっかり忘れること、すなわち一般に自分自身のことやまた自分に係わることをもう何も考えないで、自分が個人的に果たさねばならぬしまたそれが許されている或具体的な任務をひたすら専念することです。」
没頭とは、神への道の発見であり、すっかり自己を差し出し、世界を志向することである。それは「全存在」を挙げて日常において仕事に専心したり出会いうる他者を愛することである。要するに、日常においてそのつど為すべき事を全存在を挙げて「まったき志向でもって」為すことである。フランクルの言う「転回」とは、自己に目標を設定する自己中心的な観点から、世界を志向する世界中心的な観点への人間の変革を意味しているのである。
「自分をうとんじすぎたりまたは自分に構いすぎたりするより遙かに重要なのは、自分をすっかり忘れ去ること。すなわち一般に自分自身のことやまた自分に係わることをもう何も考えないで、自分が個人的に果たさねばならぬしまたそれが許されている或る具体的な任務にひたすら専心することです。」
「生きるとは、問われていること、答えること。−−−−自分自身の人生に責任をもつことです。ですから、生はいまや、与えられたものではなく、課せられたものであるように思われます。生きると言うことはいつでも課せられた仕事なのです。・・・けれども、ここで、次のことを付け加えなければなりません。つまり、宗教的な人間は、生きている実感、いわば「存在理解」が優れていて、もう一歩先に進みます。人生を仕事と心得ている人たちをしのぎます。課せられた市議とだけではなく、いわば、それを「課す」または「課した」決定機関である神格をも知っています。いいかえれば、宗教的な人間は、人生は神が課した使命だと知って生きているのです。
この箇所の前半では、人間存在とは、「責任存在」であるという、実存分析の中心となるフランクルの人間理解が簡潔に提示されている。生きるとは問われることである。つまり、人間はそのつどの状況の中で「どうするか」を問われているのである。人間はそのような「人生問題」に答えなければならない。何かをすることによって答えなければならない。それは自分の人生に「責任を持つ」ことである。そして、人間がそのつどの状況の中で問われているとするならば、生きるということそれ自体が、人間のために「与えられている」もの、人間が好きにしてよいものではなくて、人間に課せられているもの、つまり人間が引き受けて取り組むべきものである。つまり、最低限投げ出しては行けないものである。しかしながら、生きることを課題として理解するだけではなく、その課題を課している神をも体験しているのが宗教的人間である。つまり、宗教的人間には、自分が生きているのは、神からの任務であり、人格的存在である神が自らの意志によってそれを決断したのだという実感があるのである。

============ 宗教的人間 ==============
そのつどの状況の中での問いに対して神の前で答える、人間が神の前で責任をもつということを、舞台の上の役者にたとえて、
「人間たちは俳優が舞台上にあるのと同じように生命の中に立っているのだというのが本当であるとするならば、われわれは俳優がライトに目がくらんで観客席のところに大きな黒い穴以外の何ものをも見ることが出来ない有様を考えることができます。彼は自分が「誰の前で」演技をしているのかを見ることができないのです。人間もこれと同じような状態にあるのではないでしょうか。人間も、日常性の『外観』に目がくらんで、自分が『誰の前で』みずからの現存在の責任を(俳優が自らの役割を引き受けているように)『引き受けて』いるのかを知りえないのです。彼は誰の前で行動しているのかを見ることができないのです!しかしながら、われわれが『何一つ』みることのできぬその場所に、まさにその場所に大いなる観客が坐っており、脇目もふらずにわれわれを見つめているのだということを考えている人々も、いつの場合にも必ずいるのです。このような人々こそ、我々に向かって『注意したまえ、君は開かれた幕の上に立っているのだ』と呼びかけている人々なのです。」
この引用中の「大いなる観客」とは神のことを指すと考えられる。つまり、宗教的人間は、自分がそのつどの状況の中でどのように問いに答えるかを神がじっと見つめていると考えるのである。宗教的人間にとっては、人間は神によって問われている存在なのである。神は人間に問いかけている。それはもちろん物理的でではなく、そのつどの状況を通して人間に問いかけている。その問いは、「今ここでおまえはどうするか?」とでも表現できよう。その都度の状況において、「おまえはどうするか」という問いに、逆に、「私はどうすればよいか」と問い返す。それを神にとうこと、それが祈りである。その問いを発することによって、人間は、神の声を聴こうとする。

============ 働くことの意味 ==============
人間の人格は独自性を示し、個人の生活はどの場面でも一回的なものであるが、個人の使命感はこの独自性と一回性に連関している。そして個人の独自性は共同体(世界・社会という意味)との関係で形成されるため、その使命は通常、職業活動の場で果たされることが期待される。しかし価値の実現は職業そのものにあるのではなく、職業のもつ共同体に対する役割(職業における個々の具体的な仕事)にある。すなわちこの世界に対する役割を私たちが果たすその場において価値が実現するのであり、職業はそのための機会、すなわち仕事を提供するわけである。
もちろん、創造価値の実現は職業活動だけにとどまらず、他の活動(ボランティアや余暇活動など)にもみられる。またある一定の職業活動だけが人間に価値充足を与えるのではない。その意味で特にすぐれた職業があるわけではない。だから、もし職業活動において充足感が得られないなら、仕事をなすそのやり方に問題があるのであって、私たちの実存の独自性を形成する人格的なものが職業活動のうちにあらわれていないことによるのである。仕事において定められた技術的なことだけでなく、その境界を越えていっそう人格的なことをするときに、職業活動が生に意味を与え始めるのである。
 充実した生を送るためには、職業そのものへの依存的な生から、仕事における実存的な生への転換が必要である。職業に貴賤なし。いかに彼が働いているか、彼に与えられた役割(仕事)を実際によく果たしているかどうかが問題である。すなわち活動半径がどのくらい大きいかではなく、その使命圏をどれほど満たしているかが重要なのである。人間の持つ独自性と状況の一回性から派生する具体的な使命は、つねに誰が行うか、いかに行うかにあるのであって、何を彼が行うかには存しない。単純な労働者や平凡な家庭の主婦であっても、自覚した具体的使命を実査に果たしていれば、良心を持たない有名な政治家や多くの患者をあずかりながらも責任を自覚しない外科医よりは評価されるのである。自分の活動範囲においてどれだけ最善を尽くし、個人のかけがえのなさがどれだけ発揮され、生活がどれだけまっとうされているかが問題だと指摘している。

============ 幸福を追求するのではない。没頭を追求するのだ ==============
 人間は、自分のために生き、自分の幸福を目指してその獲得に失敗し、どこか満たされなさを感じざるを得なくなっている生き方から、自分が誰(何)のために何ができるかを自覚した「より本来的な生き方」への転換を目指すのです。いかにいきたらよいか。今、この場面でやらなきゃいけないことをかたっぱしからひとつづつ集中してやるだけ自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれほど最善を尽くしているかだけだということです。活動範囲の大きさは大切ではありません。大切なのは、その活動範囲において最善を尽くしているか、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかだけなのです。各人の具体的な活動範囲ではひとりひとりの人間がかけがえがなく代理不可能なのです。

============ 人間は楽しみのために生きているのではない ==============
 思い浮かべてみることにしましょう。ある男が、死刑の判決を受け、処刑の数時間前に、最後の食事の献立を好きなように考えていいと言われたとします。看守が独房に入ってきて、男の望みをたずね、いろんなおいしい食べ物の提供を申し出ます。けれどもこの男は、どんな申し出もはねつけます。この男にしてみれば、ほんの数時間後に死体になる運命のこの有機体の胃のなかに、おいしい食べ物をつめこもうとつめこむまいと、まったくどうでもいいことなのです。いまならまだ、まさにこの有機体の大脳の神経細胞に快感が起こることも可能です。けれども、その快感も2時間たてばすべての神経細胞が永遠に滅んでしまっているだろうという状況を考えると無意味なのです。
けれども、すべての生は、死に面しています。そして、この男が考えていることが正しいとすると、すべての人の一生も無意味だと言うことになります。もし、私たちが、できるかぎりたくさんの、できるかぎり大きな楽しみを求め、楽しみを得ることだけを追求しほかになにも追求しないのなら。楽しみそれ自体は、生きている意味を与えることが出来るようなものではありません。ですから、楽しみがないからといって、生きる意味はなくなりはしないのです。そのことを、さっそくいま確認してみましょう。
 自殺を図った後、命が助かったある男が、ある日、私に話してくれました。それによると、その男は、自分の頭を打ち抜くために、車で街の外に出ようと思いました。もう夜もだいぶふけていたので、市電に乗ることができず、タクシーに乗らなければなりませんでした。そのとき、彼は、タクシーに乗るためによけいなお金を使いたくないとためらったのです。とうとう、彼は、死ぬ直前にまだそんなふうにためらう余裕があったことに、笑みを禁じ得ませんでした。死に直面してお金をケチるなんて、自殺を決意したこの男には、ばかばかしいことにしか思えませんでした。
 こうしたすべてのこと、人間が楽しみを求めたりお金にとらわれたりしることによって幸せな生活を得ようとする迷いからこのように目覚めることを、タゴールはある詩の中で見事に表現しています。彼は次のようにうたっています。

私は眠りを夢見る、
生きることが喜びだったらと。
私は目覚め気づく、
生きることは義務だと。
私は働く−すると、ごらん、
義務は喜びだった。

============ 幸せは目標ではなく、結果にすぎない ==============
そういうわけで、生きると言うことは、ある意味義務であり、たったひとつの重大な責務なのです。
たしかに人生にはまたよろこびもありますが、その喜びを得ようとつとめることはできません。よろこびそのものを「欲する」ことはできません。よろこびはおのずとわくものなのです。帰結がでてくるように、おのずと湧くのです。しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。しあわせとは、タゴールの詩で義務といわれているモノを果たした結果なのです

============ 専心の哲学 ==============
フランクルは言う。「われわれは何らかの事に自己を委ねることによってはじめて自分の人格を形成するのである。」そして、彼はヤスパースの次の言葉を引用している。「自分を自分自身の上にだけ築く人間存在は地盤を喪失する。人間が人間になるのは、いつも自己を他者に委ねることによってである。人間の本質は、彼が自分のものにする事物によってきまる。」これと同じ事を西田幾多郎「自己を忘れたる所に真の人格は現れ」と表現している。このように真の自己実現は自己超越によってのみ可能になる。そしてそれがまた真の意味実現でもある。なぜなら、意味実現は、すでに述べたように「われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われている者として体験される」こと、言い換えれば「人生がわれわれに毎日毎時・・・提出」する問いに自己超越し、その問いに「詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答」することによってのみ可能となるからである。
このように真の自己実現と自己超越と意味実現の3つは根本において一つのものである。「飛び込んだ力で浮かぶかわずかな」という俳句がある。蛙が自己を忘れて水に飛び込む、まさにそのことによって蛙は浮かぶことが出来、本来の蛙になる。これと同じく、自己を忘れて自己ならざる存在に専心(自己超越)する、まさにそのことによって人間は意味を実現し、真の自己になる。つまり、自己は自己ならずして自己なのである。
 フランクルはこれを「自己形成の秘密」と呼ぶ。この秘密は先に述べたように、自己の根底には自己を超えたものが自己に即して働いていることを示すものであり、またフランクルの言う「超意味」の存在を証しするものであると言いうるであろう。
 われわれは、「毎日毎時」自己と意味実現の機会に中に置かれている。それは時と所と人によって千差万別であり、しかもそのいずれもが一回きりで反復不可能なものである。フランクルは2000年前のヒレル(タルムードの創始者の一人)のモットーを引用している。「もし私がそれをしなければ、だれがするだろうか。しかし、もし私が自分のためにだけそれをするなら、私は何であろうか。そして、もし私が今しなければ、何時するだろうか。」この言葉は、各人の唯一制と各状況の一回性、およびその状況に各人が自分を忘れて専心するのでなければ本来の自分を失うことを語っている。

============ 芸術的直感 ==============
人が自分の仕事に専心すればするほど、摂理はその人を通して働く。ここで仕事に専心するとは、反省や自己意識を捨てて精神的無意識に自己を委ねること、つまり事そのものになりきることであり、そのとき「摂理がその人を通して働く」とは、摂理が精神的無意識を通して芸術的インスピレーションとして働くと言うことである。
 われわれはしかしここで「摂理」という言葉にとらわれる必要はないであろう。重要なことは精神的無意識を信頼し、仕事に専心することである。


三島由紀夫
『辛さ』について−「若きサムライのために」

辛さについて、「実は一番辛いのは努力することそのことにあるのではない。ある能力をもった人間が、その能力を使わないように制限されることに、人間として一番不自然な苦しさ、辛さがある」「人間の能力の100%を出している時に、むしろ、人間はいきいきとしているという、不思議な性格を持っている。しかし、その能力を削減されて、自分で出来るよりも、ずっと低いことしかやらされないという拷問には、努力自体の辛さよりも、もっとおそろしい辛さがひそんでいる。」


『よき人生について−ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』ウィリアム・B・アーヴァイン著

ストイックは尋ねるだろう。そのために死んでもいいと言えるものを持たない人生など、果たして生きる価値があるのか、と。(『よき人生について−ローマの哲人に学ぶ生き方の知恵』ウィリアム・B・アーヴァイン著・210頁)

「人は自分が惨めだと思った分だけ惨めなのだ」とセネカは言う。(230頁)

今日多くの人々は、幸福とは他の人(政治家でもセラピストでも)から与えられると思い込まされている。ストアはこの考えを否定する。人は自分の不幸に責任があるように、幸福にも大きな責任がある。(231頁)

頭の中に見つかる欲望を何がなんでも満たそうとするのではなく、いくつかの欲望の形成を防ぐ一方で、形成されてしまった欲望の多くを消し去るように努める。そして新しいものを欲しがるのではなく、すでに手にしているものを望む努力をするのである。(234頁)


山本五十六

苦しいこともあるだろう。
言いたいこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。
腹の立つこともあるだろう。
泣きたいこともあるだろう。

これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。



ばくちをしないような男はろくなものじゃない。


必勝の三原則
1.勝負に自分の利益ということが混じると判断が正確に下せない。私利私欲を捨てること。
1.科学的・数学的根拠に基づく判断でなければならぬ。勝ち負けに熱を上げてしまっては駄目。
1.勝機が訪れるのを待つ忍耐。必勝の時がくるのを長時間待つ忍耐が大切。たくさんの紳士や淑女が熱狂しているときでも、自分一人周囲の者から白眼視され、馬鹿者扱いにされても平然と先勝のくるまで何時間でも待って決行するところに勝機がある。






福沢諭吉
『学問のすすめ』

人に貴賎はないが、勉強したかしないのかの差は大きい。
実生活に役立つ学問を最優先しろ。
自由に「ものが言える人」になれ
もし政府に不平があるなら、陰で恨みを抱かず、正々堂々と政府に対して議論すべきである。天の道理、人間の情にかなうことなら、命をかけても戦うべきであり、それがつまり国民としての立場(分限)に相当する。
他人の迷惑にならない「欲望」はすべて善である
世の中に悪徳は数多くあれども、人との交際において怨望(羨みねたむこと)よりはなはだしく有害なものはない。

<商売でいちばん大切なこと>
かくのごとく、人生というものはままならぬもので、予想外のことが起こり、計画通りにはいかぬもおである。これを防ぐには、ひとがあまり気づかなかった方法を考えねばならない。それは自分の仕事なり、学問なりについて、いままでにできたこと、できなかったこと、その損得なりを、ときどき計算してみることである。これは商売で言えば、棚卸しによる損益計算にあたる。
商売の場合もっとも大切なことは、日々の帳簿を正しく記入し、定期的に在庫高を点検し、商売上の損得をはっきりさせておくことになる。

<人生の「損益」計算のしかた>
現在自分はどんな仕事や学問をし、どこまで成功したか。
来年も同じ経営法で大丈夫か。
「生まれてからいままで、自分はなにをしてきたのか。これからどうすべきなのか。」
一身の在り方を明らかにし、将来の方針を立てるには、知識と精神との、活動を点検する<棚卸し>が必要なのである。

判断力を養うのは学問しかない。

「物質的独立」なくして精神の独立はない

「自己宣伝」こそ必要である

まず独立しろ、独立したら責任を持ち、税金を払える人間になれ

『福翁自伝』
およそ世の中に何が怖いと言っても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。

福沢は、貧しい士族の家に育ち、借金に苦しめられた経験をもっていた。そこから、借金を恐れるようになり、福沢自身は、それ以来借金をしたことがなかった。(『3種類の日本教』島田裕巳著・75頁)


内村鑑三

後世に遺す物は、お金、事業、思想もあるが、誰にでもできる最大遺物とは、勇ましい高尚なる生涯である。

種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。われわれに友達がない、われわれに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝ほど、後世への遺物が大きくなる。(中略)われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。『後世への最大遺物 デンマルク国の話』内村鑑三著 67頁〜

家庭は日本人最大多数に取りては幸福なる処ではなくして忍耐の所である。『所感十年』

人生にとって一番の幸福とは何か?
それは自分の天職を知って、これを実行に移すことである。

一日は貴い一生である。
これを空費してはならない。

自己に頼るべし、他人に頼るべからず。

本を固うすべし。然らば事業は自ら発展すべし。

急ぐべからず。なにごともあせらずにゆっくりいくべし。





ゴードン・ゲッコー
"Greed captures the essence of the evolutionary spirit. "

1987年に米国で公開された映画『ウォール街』にでてくる冷酷かつどん欲な投資銀行家。2010年には『ウォールストリート:Money Never Sleeps』が再び、マイケル・ダグラス主演で制作された。GEKKO&CO.(ゲッコー・アンド・カンパニー)の経営者であり第一級の美術品収集家。誕生日は5月2日。1987年の作品では40歳代と思われる。貧しい生活から抜け出すために人一倍の野心をもって仕事に励み、不動産投資をきっかけに大金をつかみ成り上がった。キューバ産の葉巻を好む。実在の投資家アイヴァン・ヴォウスキー@がモデルとされる。

@1937年-。デトロイト出身の投資家。1980年代中盤にウォール街に於いて、卓越した投資家として名を馳せた。デトロイトのマンフォールド高校を卒業し、ミシガン州立大学で法律学を修める。企業の買収を繰り返し、当時の金額にして2億ドルの資産を有するアービトラージャーとして、後の財務長官であるロバート・ルービンとともにウォール街で名を馳せていたが、証券取引委員会の調査によってインサイダー取引が発覚し、1986年に逮捕された。ジャンクポンドの帝王と呼ばれるマイケル・ミルケンや時には証券取引委員会の人間とも共謀した。彼の株式取得方法は、買収を発表の数日前に株を最大限に買い占める手法により、時に物議を醸すなどしたが、1986年12月に彼自身が『タイム』の表紙を飾る。
ボウスキー以前はインサイダー取引によって逮捕されるケースは滅多になかった。証券取引法違反により、ヴォウスキーは服役することとなる。司法取引により3年半の服役と1億ドルの罰金刑を受けたが、2年で出所し、現在も有価証券投資事業を手がけている。なお、彼は、もっとも大きな株取引詐欺を行った男としてギネスブックに登録されている。1986年にカリフォルニア大学バークレー校でのスピーチで、"I think greed is healthy. You can be greedy and still feel good about yourself."は欲を積極的に肯定するGekkoの演説シーンに使用されている。
岡本治郎

プロフィール

青山学院大学大学院法学研究科ビジネス法務専攻修了。修士(ビジネスロー)。

日本銀行・金融広報中央委員会の平成20年度通信講座「くらしに身近な金融講座」の改訂を依頼される。

会社役員。


資格など

日本証券業協会会員
内部管理責任者資格。

実用英語技能検定準一級。

趣味は、サイクリング。ギター。


政治は芸術だ
---参考資料---

自治体職員平均給与月額番付

自治体の公債費負担率

フューチャーセンターとは

川崎市会議員の報酬

市区町村長の給料

ポストシステム思考

幸福の定量化



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