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岡本太郎の哲学



人生、即ち、芸術


何か、これと思ったら、まず、他人の目を気にしないことだ。また、他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、萎縮せずありのままいきていけばいい。これは、情熱を賭けられるものが見つからないときも大切だ。つまり、ダメならダメ人間でいいと思って、ダメなりに自由に、制約を受けないで生きていく。そうすれば、何か、見つけられるチャンスがおのずから開けてくる。一日も早く実行してみるといい。


激しく挑み続けても、世の中は変わらない。しかし、世の中は変わらなくても自分自身は変わる。世の中が変わらないからといって、それでがっくりしちゃって、だらっと妥協したら、これはもう絶望的になってしまう。そうなったら、この世の中がもっともっとつまらなく見えてくるだろう。だから、闘わなければいけない。戦い続けることが生き甲斐なんだ。


いま、この瞬間、まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で、爆発する。それがすべてだ。そうふっきれたとき、僕は意外にも自由になり、自分自身に手応えを覚えた。

人生、即、絶対的な闘いなのだ。


僕は生きるからには、歓喜がなければならないと思う。歓喜は対決や緊張感のないところからは、決して生まれてこない。


人間には、自由という条件が必要だ。自由というのは、たんに気楽にやりたいことをやるのではない。そうではなく、できるかぎり強烈な人生体験を生きるのが、自由の条件だ。


自由に、明朗に、あたりを気にしないで、のびのびと発言し、行動する。それは確かに難しい。苦痛だが、苦痛であればあるほど、たくましく挑み、乗り越え、自己をうちださなければならない。若いときこそそれが大切だ。この時代に決意しなければ、一生、生命は開かないだろう。

芸術の三原則
芸術は心地よくあってはならない。きれいであってはならない。うまくあってはならない



うまくやろう、成功しようとするから、逆にうまくいかない。人生上手くやろうなんて、利口ぶった考えは、誰でも考えることで、それは大変いやしい根性だと思う。世の中上手くやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上にのせられてしまう。一応世間体もよく、上手くはいくかもしれないが、本当に生きているのではない。流されて生きているにすぎない。。


生涯を通じて、瞬間瞬間の危険に賭けるのが真の人間の在り方だと思う。


僕は「幸福反対論者」だ。幸福というのは、自分につらいことや心配なことが何もなくて、ぬくぬくと、安全な状態をいうんだ。ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。僕は幸福という言葉は大嫌いだ。僕はその代わりに、「歓喜」という言葉を使う。危険なこと、つらいこと、つまり死と対決するとき、人間は燃え上がる。それは生きがいであり、そのとき湧き起こるのが幸せではなくて「歓喜」なんだ。
下手ならなお結構、とは僕が昔から言っていることだ。たとえば、上手いと評判の絵にロクな絵はないし、上手いと言われる歌にしても、ちっとも感動しない。だからといって、自分から引き下がって、ジメジメして下手であることを認めてはダメだ。そうじゃなく、自由に明るく、その人なりのユニークな下手さを押し出せば、逆に生きてくると思う。また、その方が人に魅力を感じさせる。下手なことを明るく自認すれば、コンプレックスを持たずに済むじゃないか。
未熟ということをプラスの面に突き上げることが人間的であり、素晴らしいことだと思わなければいけない。よく世間一般では完成された人は素晴らしいというが、この世の中には、完成なんてことは存在しないんだ。完成なんてことは他人が勝手にそう思うだけだ。世の中を支配している基準という、意味のない目安で他人が勝手に判断しているだけだ。
芸術作品がすばらしいのではない。それを理解し、感動している自分こそがすばらしいのだ。

芸術家でもタレントでも、有名になればなるほど本当に気の毒だ。自分の地位や世間の評価ばかり気にして、逆に意味のないマイナス面を背負っている。その方がはるかに虚しいんで、名もない人間の方が、よっぽど無条件な精神力をもって、世界に挑むというファイトを持ち得る。
他人に対して自分がどうであるか、つまり、他人は自分のことをどう見ているかなんてことを気にしていたら、絶対的な自分というものはなくなってしまう。プライドがあれば、他人の前で自分をよく見せようという必要はないのに、他人の前に出ると、自分をよく見せようと思ってしまうのは、その人間にコンプレックスがあるからだ。
人間として生まれてきた以上、恐怖感があるというのは、むしろ自然なことなのだ。これから文明がさらに発達するにつれて、恐怖感を持つ人はもっと増えてくると思う。恐怖感は自分一人でなく、これは人類全体の運命なんだと思って、取り組んでいけば、以外に救われるんじゃないか。

嫌われたっていいじゃないか。

あっちを見たりこっちを見たりして、まわりに気を使いながら、カッコよくイージーに生きようとすると、人生を貫く芯がなくなる。そうじゃなく、これをやったら駄目になるんじゃないかということ、まったく自信がなくってもいい、なければなおのこと、死に物狂いでとにかくぶつかっていけば、情熱や意志が湧き起こってくる。
意志を強くする方法なんてありはしない。そんな余計なことを考えるより、本当にいまやりたいことに、全身全霊をぶつけて集中することだ。ひたすらそれを貫いてみる。はたから見れば、あの人はなんという意志の強い人なんだろうということになるんだ。
ユニークでなくちゃ。


僕はいつでも最低の悪条件に自分を突き落とす。そうすると逆にモリモリッと奮い立つ。自分が精神的にマイナスの面をしょい込むときこそ、自他に挑むんだ。駄目だ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのが僕の主義。最大の敵は自分なんだ。
自信に満ちて見えるといわれるけど、僕自身は自分を終始、落ち込ませているんだ。徹底的に自分を追い詰め、自信を持ちたいなどという卑しい考えを持たないように、突き放す。僕がわざと自分を落ち込ませている姿が、他人に自信に満ちているように見えるのかもしれない。

よく「どうしてそんなに自信があるんですか」とか、「自信に満ちていてうらやましい」と言われる。だが、僕は自信があるとは思っていない。自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘い続けることなんだ。
自分の歌を歌えばいいんだよ。


一度でいいから思い切って、僕と同じにダメになる方、マイナスの道を選ぼう、と決意してみるといい。そうすれば、必ず自分自身にワァーッと盛り上がってくるに違いない。それが生きるパッションなんだ。いまは、ほとんどの人がパッションを忘れてしまっているようだ。

みんなどうしても安全な道の方を採りたがるものだけれど、それが駄目なんだ。人間、自分を大切にして、安全を望むんだったら、何もできなくなってしまう。計算づくでない人生を体験することだ。
人間が一番つらい思いをしているのは、「現在」なんだ。やらなければならない、ベストを尽くさなければならないのは、現在のこの瞬間にある。それを逃れるために「いずれ」とか「懐古趣味」になるんだ。懐古趣味というのは現実逃避だ。

芸術は呪術だ。

過去にこだわったり、未来で誤魔化すなんて根性では、現在を本当に生きることはできない。ところが、とかく「いずれそうします」とか「昔はこうだった」と人は言う。そして現在の生き方を誤魔化している。だから、僕はそういう言葉を聞くたびに、怒鳴りつけてやりたくなる。「いずれ」なんて言うヤツに、本当の将来はありっこないし、懐古趣味も無責任だ。
何かを始めても、続かないんじゃないか、三日坊主に終わってしまうんじゃないか、なんて余計な心配はしなくていい。気まぐれでも、何でも構わない。ふと惹かれるものがあったら、計画性を考えないで、パッと、何でもいいから、自分のやりたいことに手を出してみるといい。それでもし駄目なら、つまり続かなかったら続かなかったでいいんだ。いいと思うべきだ。
何にもしないで、人生を無駄に過ごすなんて、つまらないじゃない。そういう生活を続けていると、世界全体を見失うし、また、自分自身を見失うことになる。
今無いものは将来にも無い。

何を試みても、現実ではおそらく、上手くいかないことの方が多いだろう。でも、失敗したらなお面白いと、逆に思って、平気でやってみればいい。とにかく無条件に生きるということを前提として、生きてみることを勧める。無条件に生きれば、何かが見つかる。だが、必ず見つけようと頑張る必要もない。
何をすればよいのか、それがわからない、と思うかもしれない。人に相談したって仕様がない。まず、どんなことでもいいからちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件にやってみるしかない。情熱から生きがいが湧き起こってくるんだ。情熱というものは、「何を」なんて条件付きで出てくるもんじゃない、無条件なんだ。

今日の社会では進歩だとか福祉だとかいって、誰もがその状況に甘んじてしまっている。システムの中で、安全に生活することばかり考え、危険に本当に体当たりして生きがいを貫こうとすることは稀である。自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。
諦めろとは口がさけてもいわない


人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのだ。
人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのだ。

挑戦したうえでの不成功者と、挑戦を避けたままの不成功者とではまったく天地の隔たりがある。挑戦した不成功者には、再挑戦者としての新しい輝きが約束されるだろうが、挑戦を避けたままで降りてしまった奴には新しい人生などはない。ただただ成り行きに任せて虚しい生涯を送るに違いないだろう。
他者に触れること、それは自分自身を無条件で差し出すこと。


夢に賭けても成功しないかもしれない。そして、そのとき、ああ、あのとき両親のいうことを聞いておけばよかったと悔やむこともあるかもしれない。でも、失敗したっていいじゃないか。不成功を恐れてはいけない。人生の大部分の人々が成功しないのが普通なんだ。
仮に親の顔色をうかがって就職し、安定を選ぶとしようか。が、それが青年自身の人生なんだろうか。「俺は生きた!」といえる人生になるだろうか。そうじゃないだろう。親の人生をなぜるだけになってしまう。そんな人生に責任を持てるだろうか。若者自身の本当の生きた人生には決してならない。自分自身の生きる筋は誰にも渡してはならないんだ。この気持ちを貫くべきだと思う。
僕は口が裂けても諦めろなどとはいわない。それどころか、青年は己の夢にすべてのエネルギーを賭けるべきなのだ。勇気をもって飛び込んだらいい。
人類は進歩なんかしていない。


安易な生き方をしたいと思ってしまったときは、そんな自分を敵だと思って闘うんだ。結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えば、これほど爽やかなことはない。
人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれ変わって運命をひらくのだ。それには心身ともに無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋に膨らんでくる。いままでの自分なんか蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。
決意の凄味を見せてやるというつもりで、やればいいんだよ。

名前なんてないほうがいい。
本当に生きるということは、環境に迎合したり、また安易に受け入れられ、好かれたりすることであってはならない。私はいわゆる成功はむしろ絶望に等しいと思っている。いつでも計算を超えた無目的な闘い、いわばあらゆる対象への無条件な挑みを続けることが人間的であり、生きがいであると信じている。
ズバリ答えよう。金と名誉を捨てたら人間の「生命」がのこるんだ。

精神の自由さから来るデタラメこそが真の芸術である。

岐路に立ったら迷わず危険な道を選べ。

いいかい、怖かったら怖いほど、逆にそこに飛び込むんだ。

自分の価値観をもって生きるということは嫌われても当たり前なんだ。

何だこれは!!醜悪だ。
それが美しい。逆に、きれいと美しいとは正反対。

出る杭になれ。

四角い枠にこだわるな。
キャンバスからはみ出せ。

人生に命を賭けていないんだ。だから、とかくただの傍観者になってしまう。

自分という人間をその瞬間瞬間にぶつけていく。そしてしょっちゅう新しく生まれ変わっていく、エネルギーを燃やせば燃やすほど、ぜんぜん別な世界観が出来てくる。

心を入れ替える、なんて言うのは卑しい。

誤解される人の姿は美しい。
人は誤解を恐れる。だが本当に生きる者は当然誤解される。誤解される分量に応じて、その人は強く豊かなのだ。誤解の満鑑飾となって、誇らかに華やぐべきだ。

老いるとは、衰えることではない。年とともにますますひらき、ひらききったところでドウと倒れるのが死なんだ。

字は絵だろ。絵だって記号だ。どっちも呪術をはらんでいる。

「なんだ、これは!」というようなもので、ぐーんと打ってくる。それこそ芸術だ。
死んで何が悪い。祭りだろ。

孤独に生きる、というのは人間全体として生きることなんだ。

教祖?信者の一人もいない教祖だね。

負けると信じている戦争。全体の死を予感しながら、このような中で絶対をゆずらず、挑み、耐えた。

恋いは一目惚れだ。

恋愛っていうのは、必ず片想いなんだよ。

ある人が言った。
「あなたは絵描きさんでありながら、さかんに文章も書くし、いったいどっちが本職ですか」
「本職?そんなのありませんよ。ばかばかしい。もしどうしても本職って言うんなら、『人間』ですね」
みんなが笑う。どうして笑うんだろう。
生き甲斐をもって猛烈に生きること。自分のうちにある、いいようのない生命感、神秘のようなもの、それを太々とぶつけて出したい。

結婚するなと言わないけれど、若い二人が、マイ・ホーム、マイ・ダーリンと狭い国境を作って、他人は削除するような気分はよくない。花嫁はこれから世界中の男の花嫁になったつもりになりなさい。



いいかい、怖かったら怖いほど逆にそこに飛び込むんだ。やってごらん。


岡本治郎

プロフィール

青山学院大学大学院法学研究科ビジネス法務専攻修了。修士(ビジネスロー)。

日本銀行・金融広報中央委員会の平成20年度通信講座「くらしに身近な金融講座」の改訂を依頼される。

会社役員。


資格など

日本証券業協会会員
内部管理責任者資格。

実用英語技能検定準一級。

趣味は、サイクリング。ギター。


政治は芸術だ
---参考資料---

自治体職員平均給与月額番付

自治体の公債費負担率

フューチャーセンターとは

川崎市会議員の報酬

市区町村長の給料

ポストシステム思考

幸福の定量化



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