姉小路の野望  −天下への道−    
松倉城 姉小路家
城主 姉小路頼綱
城防御度 383/500
城規模 LV4/LV5
兵士 4192/21200
兵糧 5918 金銭 3674 大砲 0
軍馬 413 鉄砲 27
金銭支出 18 兵糧支出 139
兵増加 154 負傷兵 0
戦略会議
1582年2月 −上洛会議−朝廷閲兵式、二条城攻め
1583年2月 −安土攻略軍議−
1584年1月 −信長亡き後の戦略会議−
1585年3月−信忠討伐戦略会議
1586年4月−織田家滅亡後の戦略策定会議
戦国M&A
−金融資本主義サバイバル
トレーディングで生活したい
投資の羅針盤
実録!デイトレード
サバイバルを生き抜く自力本願哲学
全体を俯瞰する視点−ホリスティック
争族の科学
領民の幸福を考える−システム幸福学−
勝負師の経営学−システム経営学
勝負師の健康管理−システム健康学
領国経営学−システム国家論
勝負師の哲学−システム哲学
頼綱の宗教政策−システム宗教論
最新の経営戦略−ゲーミフィケーションについて
このサイトについて
手数料比較
節税
海外版
テクニカル・ポイント
おすすめ書籍/CD/DVD
おすすめ書籍
姉小路頼綱(あねがこうじよりつな、天文9年(1540)ー天正15年(1587年6月1日)

戦国時代、安土桃山時代の武将、大名。姉小路良頼の長男。妻は斉藤道三の娘。別名、三木自綱(みつぎよりつな)。他に光頼、自頼。飛騨姉小路氏の当主。左衛門佐、侍従、太宰大弐、左京大夫、大和守、大納言(自称)。庵号は休庵。
430年前の戦国武将、姉小路頼綱に転身したあなたは戦国末期を生きられるか。歴史はあなたがつくる。いざ出陣。


1582年6月河内長野の雑賀衆・鈴木家が、織田家の支配する大和郡山城を落とす。
1582年11月 鈴木家の居城・雑賀城が織田方の攻撃により陥落。

1583年1月 姉小路頼綱ひきいる4千余りが、織田の武将・片桐且元、筒井定次、大谷吉継の4800が守る二条城に攻め込んだ。織田方が実際に城の守備に投入できたのは3429人であった。しかし、織田方には鉄砲隊がおり、きわどい戦いになることが予想された。世に言う、『姉小路新年の反乱』である。
発言者 内容
公国の興廃、この一戦にあり。各自、奮闘せよ。
結果は、全滅であった。織田の武将は強かった。
三木は、急遽、京ではなく、安土に向かい、信長と謁見、同盟を申し出るが断られる。2ヶ月にわたり安土で交渉にあたるが信長の怒りは収まらなかった。こうして、三木も兄を追いかけて、一人、飛騨への帰路を急いだ。その時、すでに織田軍が富山から飛騨に迫っていた。

1583年6月 三木より一足先に飛騨についた頼綱は、富山から攻め入ってきた織田の先陣を城から出て撃滅した。
1583年7月 頼綱は、織田方の佐々の軍と戦うが、劣勢。しかし、翌月、佐々は富山に引き返していくことになる。
1583年8月 佐々成政を退却させた頼綱だが、頼綱の兵も混乱していた。
1584年1月 富山の織田方を上杉軍が攻略。富山城陥落。
発言者 内容
上杉家とは同盟関係にはもはやないが、友好度80%じゃ。これで北から攻められることはまずないじゃろう。南の岐阜からの織田の攻撃に備えるため、支城の建築をいそげ。

1584年5月 岐阜より織田方の6大隊が出撃。



1584年6月 織田方、飛騨に向かうと思いきや、武田の深志城方面に

1584年10月 織田方の武田討伐隊の最後尾を姉小路の堀内隊が攻撃。背後を突かれた織田方は壊滅。
1584年11月 姉小路の堀内隊、織田方の兵糧を奪取。万年兵糧不足であった飛騨が一気に潤う。

発言者 内容
さて、上洛、信長抹殺作戦は、見事に失敗。奇襲はうまくいかんもんじゃの〜。これから、どうするか。みなのもの、きたんなく、我が国の将来、そして戦略について発言せい。
へえ、兄じゃ、信長と安土で2ヶ月にわたり再度同盟してもらうよう交渉したのでよーわかる。信長は相当いかっとる。武田を落とせば、すぐに、その怒りの矛先は、全力でわしらにむかってくるぞ。時間の問題じゃ。織田の大軍がくるまでに逃げる。どこまでも、織田から離れる。少しでも遠くへ。これしかない。
ふむ。ならば、織田が落とした深志城には、武田が奪い返そうと兵を出したときく。それをまた、奪おうと徳川が動き出した。この焦点の深志城を呂布の利でかすめとるという戦略はどうじゃ。そして、その後、甲斐を経由して、関東平野に逃げる。小田原にでも居座ることができたら、そこまでは織田も追いかけてはこまい。
兄じゃ、次は、失敗できんぜよ。
何弁じゃ。いろいろと交渉にいってもらった労には感謝するが、おぬしもかわった方言を話すようになったのう。。
兄じゃ、そんなことより、戦じゃ。
弟よ。今回は、我が軍の総力をあげて攻める。
皆の命をわしに預けてくれ。
はなから、そのつもりじゃ。
さすが、弟よ。
兄じゃ。

1585年6月 織田の深志城は、武田の猛攻により陥落した。
1585年8月、真田・姉小路の両軍は甲斐の武田を攻める。
1585年9月 真田軍は退却。
1585年12月 姉小路の甲斐攻略軍、全滅。

1586年4月 徳川の武田・深志城攻略隊、全滅。

発言者 内容
さて、焦点の深志城は、現場の判断で、スルーして、甲斐の武田を一気に攻めた。真田軍と合流するも、さすがに、武田は強かった。
兄じゃ、間者の報告では、信長の大軍がこの飛騨に攻め寄せてきますぜ。織田の大軍が岐阜を出てからではおそいのじゃ。ここは、全力で、甲斐をうたねば生きる道がないぜよ。
ふむ。兵糧も金も兵糧隊にもたせて、全軍で甲斐を撃つ。なにがなんでも甲斐をとる。

1586年夏 姉小路の先陣、第二陣は武田勝頼と対戦。玉砕。
1586年9月 姉小路頼綱本体も武田勝頼に敗れる。
1587年1月  第三次甲斐の武田討伐隊飛騨を発つ。
1587年11月 甲斐の武田館を総攻撃。姉小路5250に対して武田3060ながら、武田方奮戦。姉小路軍壊滅。
1587年12月 第四次武田攻撃計画スタート
1588年1月 頼綱に長女・美治(みち)姫が12歳となり、人材不足のため武将として育てられることに決定。名前を『みはる』とする。
1588年4月 甲斐への攻撃隊が移動中、深志城を攻略しようとする徳川軍の兵糧部隊を攻撃、搾取に成功。
1588年5月 武田の穴山信君に美治隊が攻撃をうけ壊滅。
1588年6月 頼綱隊、深志城郊外にて穴山信君隊を撃滅。 甲斐先遣隊は武田の上杉攻撃隊の兵糧隊を攻撃。兵糧を得る。
1588年9月 第四次甲斐攻撃隊の先陣、堀内隊、城から出てきた武田軍の攻撃に壊滅。
1588年10月 徳川の深志攻撃隊の兵糧部隊を追撃、兵糧を獲得。堀内隊を撃滅した甲斐の藤田信吉隊を頼綱が撃滅。
1588年11月 頼綱、甲斐の武田館前に布陣。
1589年3月 武田方、籠城中。姉小路側、軍議を開く。


発言者 内容
武田が、城の外に出てきてくれたら、攻略のチャンスなのだが、籠城してでてこん。これでは、こちらの兵糧があと半年でつきてしまうわ。
兄じゃ、攻略は無理じゃ。敵が出てくるまで待つしかない。
ふむ。勝頼のことじゃ、きっと、城から出てくる。兵に、城の外から城にむけて、ののしらせておけ。勝頼がでてきて、隙ができた城をかすめ取る。

1589年5月 武田勝頼、城を出て、三木隊を攻撃。頼綱、すかさず、武田館を総攻撃。城は陥落。六角義治、藤田信吉、那須資晴は登用、朝比奈信置、安部元真は斬首。ここに4年にわたる甲斐攻略に成功。その支配を飛騨および甲斐の2カ国とする。


織田家 兵士数 30万8425人 負傷兵1309
徳川家 兵士数 5万9360人 負傷兵178
上杉家 兵士数 10万671人 負傷兵 0
武田家 兵士数 14281人 負傷兵 0
真田家 兵士数 9829人 負傷兵 0
姉小路家 兵士数 7133 負傷兵499

1589年11月 戦略会議
発言者 内容
わしも、これで飛騨、甲斐の2カ国を領有する大大名じゃ。わっはっはぁ。
発表。遷都を実行する。飛騨から甲斐に首都を移すのじゃ。これからは甲斐を本拠とする。
さすが兄じゃ、織田方から少しでも離れたところに本拠を構えるとはさすがですな。織田方は武田攻めを終えたら飛騨に攻めてくるでしょう。それを防ぐために、今、美治を中心に飛騨の要塞化工事が着々と進んでおります。支城を4つも建築し、さらに2つつくる予定とか。
ふむ。信長は勝頼を撃つ気じゃなぁ。織田と武田の戦は織田が圧勝するじゃろ。我らが勝頼の大軍を甲斐にとどめておるしな。また、徳川が深志城の武田攻略部隊を派遣している。深志が落ちると、織田、徳川が本格的に我が方に攻めてくるぞ。それまでに国力を増大させ、富国強兵にはげまねば。

1590年4月 徳川方が武田の深志城を攻め落とす。武田家滅亡。深志城周辺で織田と徳川、交戦状態に入る。
1590年5月 織田軍、徳川の深志城を包囲。守る徳川方は、大久保長安を城主に兵士数9598人。城防御度353/600。
1590年6月 深志城の徳川軍、城を脱出。織田方、城を奪取。一方、尾張の徳川軍、5大隊で伊勢を攻略。徳川と織田の戦闘が激しくなる。
1590年8月 徳川の3大隊1中隊が駿府を出撃、甲斐に攻め入る模様。守る姉小路側の兵力は6779人。
1590年10月 とうとう岐阜の織田の3中隊が飛騨領内に進入。飛騨を守るのは三木を城主に4武将。姉小路側の守備兵4167人。
1591年1月 姉小路頼綱死亡。15歳の美治が後継者となる。駿府徳川軍なぜか、甲斐を攻めずに駿府にひきかえす。飛騨攻略の織田軍の先陣は武田勝頼であった。支城にこもった三木隊が勝頼隊を破る。
1591年5月 美濃の織田の大軍と美治隊が木曽川付近で交戦。美治隊全滅。美濃ががらあきになったのをねらって尾張の徳川が美濃を大軍で攻める。


1592年1月 織田が大和の鈴木家を紀伊、京から挟撃、鈴木家が滅亡。
1592年4月 織田の攻撃により四国伊予の河野家が滅亡。飛騨の三木隊は織田方の攻撃隊を殲滅。わずか4000人ほどで織田方を破ったことで飛騨の要塞化に自信を深める。飛騨の守備隊残り3798人。
1592年6月 深志城の織田軍、甲斐に向けて攻撃隊を出撃させる。
1592年7月 甲斐領内で姉小路軍と織田軍が激突。姉小路が勝利する。
1582年8月 駿府の徳川家康が、結城秀康とともに甲斐にむけて出撃。
1592年10月 甲斐領内の姉小路の支城にて、美治と秀康が戦闘。美治が勝つ。
1592年11月 美治が家康隊と交戦。美治が勝つ。家康は討ち取ることはできず。

発言者 内容
叔父上、飛騨の防衛ごくろうさまでした。よく織田の大軍を寡兵で防いでくれました。姉小路家にとって、飛騨は先祖の地。甲斐進出がなった今も、亡き良頼おじいさまのお墓がある大切な地。父上の偉大な功績で今は甲斐中心に国力が充実しつつありますが、もし、あのまま飛騨にとどまっていたら、今頃、じり貧でした。
いまや美治も、立派な武将。姉小路家の立派な当主。親方様じゃ。さぁ、親方様。今後の戦略はいかがなされますか。決戦は織田とですか、徳川とですか?
織田は、今や、飛ぶ鳥落とす勢い。我らが甲斐を攻略したのももとはといえば、織田から逃げるため。織田と戦って勝つなど身の程をわきまえなくては。いくら叔父上が戦上手といっても、4千の兵で1万の兵を破ることができても、10万の兵とは勝負になりませんわ。織田も追いかけてはこれぬ、場所に地盤を確保しなくては。めざすは駿府城攻略よ。
さすが親方様。兄じゃの血を引き継いで戦略家じゃ。
駿府、小田原と関東に織田家に対抗できるほどの地盤を築くのよ。
大戦になりますな。
こうして、姉小路家は甲斐の全軍を駿府攻めに動員した。時に1593年春のことであった。
駿府攻めは順調であった。城を出た家康との会戦に勝利した美治は、城を包囲。3ヶ月かけて水攻めで城の防御度を落としてから、城内に突入。家康の抵抗は激しかったものの、9月に駿府城を攻め落とした。徳川家康、本多忠政、向井正綱、徳川秀忠は斬首された。家康、秀忠が死亡したことで、本多忠勝が独立、名古屋、岡崎、浜松をおさえ、総兵力6万を超える大名として徳川家の遺産をほぼ受け継いだ。

留守の甲斐は、深志城を出た織田軍の攻撃を受けていた。
織田の攻略をしのげたのは、城の普請に力をいれていたおかげであった。




1593年10月軍議
発言者 内容
駿府を水攻めでぼろぼろにしてしまったのは残念ですが、家康を討ち取ったのは大手柄でしょ。これで、戦国時代、わが姉小路家が生き残る筋がみえてきたわ。北条家は、今や総兵力1万4千余り。浜松の本多家を威嚇しつつ、一気に関東制圧をめざすわよ。織田家に対抗する関東政権を樹立できるわ。
親方様のビジョンは立派でござる。
北条、真田と討ち果たせば、そのころには、10万の大軍を動かせるようになるわ。きっと上杉家と肩を並べるようになってるはずよ。
飛騨は、今や飛び地となってしまったわね。飛騨に関しては、残念ながら救えないわ。織田家に攻略されるのも時間の問題かも。でも、飛騨がふんばってくれたおかげで、関東に進出がかなうのよ。
さすが親方様。本多家を攻めすぎないのは、織田に対する防御壁にしようという心づもりですな。
本多は織田と戦わせておけばよいのよ。昨日の敵は今日の友。

1594年6月 姉小路に猛攻により小田原陥落。
浜松の本多は、深志城の織田への攻撃隊を繰り出し続け、尾張からは本多家が織田の岐阜城への攻撃隊を繰り出し続けている。
その間、飛騨の1部隊に岐阜と深志城間の織田家兵糧隊を攻撃させ、飛騨は多いに潤っていた。
織田の岐阜城、本多の猛攻に陥落。

1594年10月 姉小路の美治隊はじめ4部隊が川越城の真田家を包囲。美治隊のみ城に突入。川越城陥落。
 

いまや、総兵力では旧・徳川家を継いだ本多家と肩を並べるような大国となった姉小路家。
総兵力6万のうち2万5千が飛騨にある。深志の織田をスルーして、主力を関東に移せるのか。
関東制覇は、飛騨衆の深志越えにかかっている。

1594年12月 姉小路軍、本多の浜松城を包囲。城を出た伊丹隊に木曽隊殲滅される。
さらに本多正純が包囲している大久保隊に攻撃。大久保隊はもちこたえる。
1594年1月 姉小路の木曽義昌、大久保長安隊4439人は、本多家の浜松城を攻撃。
城内には992人しかいなかったが、城の防御が堅く、城を攻め落としたとき、残り兵は、1242名であった。
1595年 1月 姉小路美治の軍が、佐竹の佐倉城を攻略、攻め落とす。

1595年3月 姉小路美治隊と久留里の北条氏照隊が激突。姉小路美治隊が駆逐される。
六角義治が北条氏照の側面をつくが、敗北、六角は捕虜となり、北条に登用される。
堀内隊が、北条氏照にかかるが、互角の戦い。那須資晴が、氏照の後方にまわりこみ、氏照隊を破るが、氏照を取り逃がす。。
岡崎から、本多家の服部の大隊が、浜松に押し寄せる。木曽義昌が迎え撃つが木曽は退けられる。
同じ頃、真田の一軍が箕輪城からがら空きの川越城にむけて進撃を開始。

1595年5月 本多の服部隊の浜松城攻めが開始される。奮戦むなしく、浜松城陥落。
一方、久留里城を包囲していた姉小路軍は、北条氏照が城を出たとみるや総攻撃するも、久留里の守りは堅く。攻撃隊全滅。
また、佐竹軍が、宇都宮、水戸から一斉に南下してきた。

戦略会議
発言者 内容
三方から敵が迫ってきてるわ。どうやら姉小路家は、急拡大させすぎたようね。佐竹の大軍の南下、および、真田の南下の同時攻撃には、たえられそうもないわね。ここはいったん川越城は放棄、小田原まで撤退。また、佐倉城も放棄、逃げようがないので、全力で、久留里を攻めるわよ。
親方様。戦で大切なのは、負け方でござる。被害を最小限にくいとめながらの撤退。ここが将の器の見せ所ですぞ。
飛騨の大軍は、深志越えをなしとげたと聞くわ。また、浜松陥落とはいえ、大量の財宝は、すでに駿府に移送済み。川越の金と兵糧は無理としても、佐倉の金と兵糧は運び出しながら、うまく撤退してみせるわ。甲斐、小田原まで引いて、そこから、再度、関東攻略よ。敵に戦線を拡大させて、のびきったところで、撃つ。ナポレオンを破ったロシアのやり方で勝負するわ。
さすが親方様。しかし、もしや我が方が、その敵のふところ深くに進入しすぎて、反撃をうけているような気もしないではないのですが。
そのきらいなきにしもあらず。頼りの綱は天国の頼綱お父様。どうかお守りください。天よ味方したまえ。

1595年6月 姉小路の川越城、真田の攻略にあえなく陥落。すぐに、甲斐から川越奪還の2隊が発つ。
1595年8月 姉小路美治隊、久留里城を攻撃する。堅牢な守りに苦戦するが、辛勝。久留里城陥落をもって、北条家を滅亡さす。
佐倉城、佐竹家の包囲攻撃にあい、あえなく落城。


1595年10月 甲斐からの攻撃隊が川越城を奪還。
1595年11月 佐倉城を攻めた美治隊、城外で城を出た佐竹義重と交戦。劣勢ながらも引き分ける。
その後、背後から、佐竹配下の蘆名隊の攻撃を受けるが、これも引き分ける。
その後、、佐竹配下の御宿隊の攻撃を受けるが。これもなんとか、しのぐ。美治隊は四方を敵に囲まれ絶体絶命のピンチ。
1595年12月 御宿隊の攻撃をうけ、美治隊壊滅。美治は命からがら戦場から脱出する。
上杉が真田の海津城を攻略。真田氏、箕輪城に撤退。真田の支配城は1つとなる。
1596年1月 織田信長が死亡する。秀信が後継者となる。


戦略会議
発言者 内容
長年の戦争で各国の兵は疲弊しているわね。そろそろ関東も膠着状態ね。関八州の太守になるには、しばらく、兵と国力を養う期間が必要ね。しばらくは専守防衛に徹して、国力を充実させてから、関東をおさえにかかるわよ。そしたら、関東管領になるわ。
総力戦は、国力の戦い、直接戦争も大事だけど経済戦争も大事なのよ。しかし武将の数が少ないのが気になるわね。
親方様。内政についてのお話をもっとお聞かせ願いとうございます。
我が国は、民衆の幸せを拡大させるような政策をするわよ。国民総幸福の追求ね。そのためには、寺子屋の整備で、民の教育をして、そして、同時に健康教育も上からの指示で充実させていくわ。民が健康で、人口が増えていけば、それは国力につながるわ。それに社会福祉も充実させるわよ。格差をなくすような累進課税制度の整備、、それと一夫一婦制を徹底させるわ。民の不公平感をなくすことは、一向一揆をふせぐことになる。それは、しいては、国力増大につながるのよ。
親方様の考えは、高尚すぎて、このおいぼれには、ついていけませぬ。まるで未来の考え方を先取りしているかのようじゃ。いま、おっしゃたことは、我が国の国是と考えてよろしいのでございましょうか。。
そうね。我が姉小路家は、おじいさまの頃は、中納言という朝廷で高い地位をしめていたわ。朝廷はそもそも平和主義よ。専守防衛、平和主義は、姉小路家の政権らしい、立派な国是といえるわ。そもそも甲斐の武田を攻めたのも、織田家の圧迫から逃れるための自衛のための戦争よ。生存のために戦争する権利は、国是として専守防衛・平和主義を抱えている我が国でも当然もっている権利なのよ。なにも矛盾はないわ。

1596年6月 真田軍により川越城が奪還される。姉小路側の川越の金、兵糧、兵は、ほぼすべて、事前に運び去られていた。
1597年2月 川越城を攻めた姉小路軍は川越を落とす。真田昌幸はとらえられ、斬首。真田家は信幸が後を継いだ。
1597年4月 姉小路軍、佐竹の佐倉城を落とす。
1597年6月 川越、佐倉から出撃した姉小路の水戸城攻略の先陣が水戸城前に到着。
1597年9月 水戸城を1万5千の兵で包囲した姉小路は、堅牢な水戸城にこもる5千の兵の激しい抵抗にあい、7千5百人の犠牲を出しながらも水戸を陥落させる。この戦いをもって佐竹家は滅亡。




1587年9月 戦略会議
発言者 内容
とうとう佐竹を滅ぼしたわ。
親方様。おめでとうございます。
みなのおかげよ。私はビジョンを示し、皆をひっぱっていっただけ。それにしても、ここまできて、やっと一息つけた気がするわ。上杉家と対峙することになったけど、あの、天下の名門・上杉と兵力で互角。城の数ではこちらが上。武将の数では負けてるけどね。あいかわらず人材不足は否めないわね。
親方様の憂慮である人材不足を解消するには、人材の宝庫といえそうな本多家そして、織田家と戦争して登用するしかないのではないでしょうか。
そうね。蘆名の先には、伊達がひかえているし、上杉と兵力は互角でも、北伐で兵がのびきるのは、西の備えが不安になるわね。
いまや織田家にとっては飛び地となった深志城を攻めて、そこにいる武将6人のうち4人を登用できたら、楽になるわね。それに、姉小路にとっても、飛び地である飛騨とのロジスティックを確保できるし。
深志城攻めと同時に、佐竹を落とした勢いで蘆名の守る宇都宮城をそして、上杉の箕輪城を落として、関東管領におなりなさいませ。
2面作戦ね。たしかに我が国の兵力も10万を超えた今、方面軍を組織する時期かもしれない。私と、家老の三木、藤田がそろって、蘆名の一つの城を攻めるのは、効率よくないわね。でも、今、深志の織田を総力をあげて攻めている本多の動向が気になるわ。たとえ、我々が深志を落としたとしても本多との戦いはさけられない。それよりも、織田と本多を戦わせておいて、そのあいだに、蘆名、上杉を撃つ。飛騨の兵については、深志越えの移送を行うようにすればよいわね。
親方様のいつもおっしゃっておられる集中でございますね。戦争は全方位展開してはだめなのですね。一点集中、重点化、経営学にも通じる深淵な考え方だと思います。集中ということであれば、上杉とは長年よい関係を保っております。ここは親方様のポリシーを形にしたような戦略、蘆名家討伐に集中なされますか?
上杉は、攻めてきたら対応しましょう。本多もしかり。今は、織田と戦わせておいて、そのときがくれば、東北大がえしでもどってきたらいいわ。兵は拙速を尊ぶよ。要はスピード勝負。今、この勢いで東北攻略に着手して、一国も早く東北をたいらげて、きたるべき、上杉、本多、そして、織田との勝負に挑むのよ。
御意。

こうして、姉小路の蘆名攻めがきまった。

1597年10月 上杉が真田の海津城を攻略。真田家滅亡。
1598年2月 姉小路軍、蘆名の宇都宮城を落とす。
1598年6月 姉小路軍、蘆名の棚倉城を攻め落とす。
1598年7月 水戸を発った姉小路軍の先鋒、小高城の伊達輝宗軍と戦闘状態に入る。壊滅。第二陣も壊滅。
1598年8月 水戸を発った姉小路の第三陣が伊達輝宗を討ち取る。正宗が後継者となる。
上杉景勝を先頭に上杉の2大隊が、箕輪城を発つ。
深志の織田軍4隊が甲斐に進入。支城で織田の先鋒を甲斐守備隊が殲滅。
1598年9月 伊達家が強く、会戦にひきこむため姉小路軍、集結準備。
1598年10月 蘆名の黒川城を包囲した姉小軍の2回目の城突撃は失敗。すぐに後続隊が城を包囲。
伊達家との会戦、織田家との塹壕戦、熾烈をきわめる。
徳川が、織田の深志城を攻め落とす。
1598年11月 姉小路、伊達家との会戦に勝利。 
姉小路の黒川城包囲隊の場内突撃は失敗におわる。3度にわたる攻略を耐え抜いた蘆名の黒川城に姉小路家中に驚愕が広がる。
1598年12月 本多が姉小路の駿府城にせまる。
甲斐に攻め入った織田軍を姉小路が撃退。
姉小路の駿府城、本多軍に奪われる

1599年2月 戦略会議
発言者 内容
北から、上杉、西から織田、それに本多、東北の蘆名攻めは城攻めに失敗。伊達との会戦は勝利するも、城に攻め入るのは、敵の守備が堅く断念して、部隊は帰路にある。うーん。とくに、駿府を取られたのは痛すぎるわ。1万8千の将兵を捕虜にとられて、我が兵力は相当ダウン。
親方様。厳しい状況になってきました。調子にのって、東北攻めをすすめて、守備が手薄になったところをつかれましたな。しかし、上杉を防いだのは手柄ですぞ。世にいう東北大がえし。
そうね。これからは、駿府の本多、そして箕輪の上杉を撃つことに集中するわよ。
箕輪の上杉を攻め落とせば、関東管領になれますぞ。

各国兵力
織田家 20万7千
本多家 7万8千
上杉家 11万5千
蘆名家 5万1千
伊達家 11万7千
姉小路家 11万2千

1599年3月 上杉と姉小路の大会戦は、姉小路の圧勝。姉小路、上杉の箕輪城に迫る。しかし上杉の防御堅し。
1599年7月 美治、駿府を本多から奪い返す。
1599年10月 飛騨の姉小路軍、深志に進入するも、敗れる。
1599年11月 本多が駿府奪還に攻め入る
1600年1月 駿府陥落。本多家の領土となる。
箕輪城外にて上杉景勝を討ち取る。直江兼続が後継者となる。小笠原秀政が春日山城で独立
1600年2月 姉小路、駿府奪還に成功する。
姉小路、直江家の箕輪城を攻め落とす。

1600年3月 戦略会議
発言者 内容
親方様。関東管領に就任しましたぞ。家臣たちも喜んでいるようです。しかし、上杉景勝は、手強かったですなぁ。
それと蘆名も伊達もね。今や、防御をがちがちに固めているわ。もはや、東北侵攻は、現実的でないわね。これから直江の海津城攻めよ。それと一進一退を繰り返した駿府の攻防を勝利した勢いで本多の浜松城を攻めるわ。それから深志城。次に、岡崎城と攻め込んで一服できそうね。
落ち目の直江の海津城は楽勝でしょうが、本多家は、人材がそろってますから、手強そうですぞ。
百も承知よ。関東に地盤を固めた今、旧徳川の人材バンクである本多をせめて、織田との総力戦に備えて人材獲得作戦よ。
1600年5月 姉小路は直江家の海津城を攻め落とした。
1600年9月 姉小路は、本多家の深志城を攻め落とした。
1601年4月 姉小路は、本多家の浜松城を攻め落とした。


1601年9月 戦略会議
発言者 内容
親方様。本多の岡崎、尾張も時間の問題で落ちますな。今や、織田の22万に対して、我が姉小路家は兵力16万。天下で第二位の軍事大国でござる。織田家とわたりあえますぞ。これまで織田に対する防御壁の役を担ってくれた本多を破って、織田家との全面戦争、総力戦に突入でござるか。
本多家の武将32名に対して、我が方は、25名。そして、織田家は91名。本多家の残党をどれだけリクルートできるかが対織田戦でのやりやすさに影響するわね。あと上の表では島津家がぬけてるけど、彼らも兵力は15万。それに伊達家13万もいつ、南下してくることか。そのとき、今の備えでもちこたえられるかしら。

1601年10月 姉小路が本多の岡崎城を攻め落とす。
1602年2月 姉小路が本多の尾張城を攻め落とす。
1602年4月 姉小路家、織田の1隊と小競り合い。
1602年5月 姉小路家、本多家の岐阜城を攻め落とす。3武将を登用。

大名家 兵士数 武将数 役職
織田家 24万3812 89 20 管領
姉小路家 19万1382 30 17 関東管領

-------------------------------------------------

姉小路の進撃はとまらない。小谷城への進軍の動きを見せるや織田秀信は、城外で応戦。
1602年7月 姉小路美治が織田秀信隊との乱戦の末、秀信が討ち取られる。
織田家は、黒田官兵衛が継ぐ。これを不満におもった織田家の重鎮が独立する。
明智光秀は、八上城で、大谷吉継は、二条城で、安土城では立原久綱が、御山御坊城では長連龍が独立した。




大名家 兵士数 武将数 役職
姉小路家 21万5225 33 21 関東管領
黒田家 18万5010 71 13 管領
島津家 16万7545 22
伊達家 13万4658 14
本多家 8024 15
蘆名家 4万8391

1603年1月 
戦略会議

発言者 内容
ようやく、この日の本で一番の軍事勢力になったぞよ。
おめでとうございます。。
めざわりな本多を征伐して、大阪、紀伊、明智、越後、越中と攻略して、畿内をおさえたら、この
日の本を、天下統一がみえてくるぞよ。
東北の伊達、また、織田を継いだ黒田官兵衛はかなりのやり手。手強いですぞ。


1604年4月 戦略会議

発言者 内容
本多を滅ぼし、大阪、紀伊を落としたぞよ。
おめでとうございます。。
しかし、東北攻略は、難儀しておるなぁ。伊達は強い。
はい。黒田の本体のある津山。そして、伊達は手強いですな。手詰まり感がでてきましたな。
島津の伸長もあとあと手強そうです。

1604年11月 八上城、および建部山城を落とす。



1605年6月 黒田家は起死回生をはかり、毛利と和睦、東北の伊達、蘆名、そして、九州の島津と呼応して、一斉進撃を企てる。
世に言う天下分け目の上ヶ原(現在の西宮市)の戦いである。

東軍(15万):姉小路家 15万、
西軍(17万):黒田家 10万、島津 5万、毛利 2万

戦いは、吉川広家の内通によって、毛利家は静観する羽目となり、わずか1日の戦いで、東軍が勝利。
黒田家は取りつぶし。島津家は領土の80%を没収、毛利家も領土の75%を没収。伊達家も領土を大幅に削られた。
蘆名家は廃絶。東北の各大名家も多くが取りつぶされた。

発言者 内容
とうとう天下を統一したわ。思えば、私が子供の頃は飛騨の小国の領主であった姉小路家がここまでの偉業をなしとげたのも
亡き、お父様の功績が大きいわね。
おめでとうございます。兄上もきっと、喜んでくれているはずです。
天国のお父様、やりました。
ようやった。わしは、子々孫々まで姉小路家の行く末を見守っておるぞ。

1605年10月 姉小路美治は江戸に幕府を開き征夷大将軍となる。
その後、時代が近代になるまでの250年間、長きにわたり平和に日本を統治した。

−−−−−−完−−−−−−−

 


戦国の勝負師
頼綱の野望
Copyright(c) 2012- Jiro's Corp.   All rights reserved.