姉小路の野望  −天下への道−    
二条城 姉小路家
城主 姉小路頼綱
城防御度 347/500
城規模 LV4/LV5
兵士 3273/21200
兵糧 2738 金銭 0 大砲 0
軍馬 0 鉄砲 429
金銭支出 0 兵糧支出 182
兵増加 154 負傷兵 2189
戦略会議
1582年2月 −上洛会議−朝廷閲兵式、二条城攻め
1583年2月 −安土攻略軍議−
1584年1月 −信長亡き後の戦略会議−
1585年3月−信忠討伐戦略会議
1586年4月−織田家滅亡後の戦略策定会議
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姉小路頼綱(あねがこうじよりつな、天文9年(1540)ー天正15年(1587年6月1日)

戦国時代、安土桃山時代の武将、大名。姉小路良頼の長男。妻は斉藤道三の娘。別名、三木自綱(みつぎよりつな)。他に光頼、自頼。飛騨姉小路氏の当主。左衛門佐、侍従、太宰大弐、左京大夫、大和守、大納言(自称)。庵号は休庵。
430年前の戦国武将、姉小路頼綱に転身したあなたは戦国末期を生きられるか。歴史はあなたがつくる。いざ出陣。


1582年6月河内長野の雑賀衆・鈴木家が、織田家の支配する大阪城を落とす。
1582年11月 鈴木家の居城・雑賀城が織田方の攻撃により陥落。

1583年1月 姉小路頼綱ひきいる4千余りが、織田の武将・片桐且元、筒井定次、大谷吉継の4800が守る二条城に攻め込んだ。織田方が実際に城の守備に投入できたのは3429人であった。しかし、織田方には鉄砲隊がおり、きわどい戦いになることが予想された。世に言う、『姉小路新年の反乱』である。
発言者 内容
公国の興廃、この一戦にあり。各自、奮闘せよ。
熾烈な戦いであった姉小路の兵は残り100人を切り、ぎりぎりのところで、城を攻め落とすことができた。
この熾烈な戦いをものにできたのは、飛騨で事前に兵たちに金品を分け与え士気を高めていたからだろうか。
紙一重のきわどい戦いであった。織田方で城の防御に投入できなかった兵については捕虜とすることができた。
こうして、京の都に、3000人の部隊を常駐させる軍事勢力が突如としてわき上がった。
織田としては、寝耳に水の反乱、まさかの京都陥落であった。



1584年2月 外交交渉(堀内氏善の取り込み工作)を終えた三木が京都に入る。


発言者 内容
いやぁ、危ない戦いであった。ふるさと飛騨から遠く離れ、上洛をはたしたぞ。
兄じゃ、まずは、おめでとうございます。しかし、周りは織田に囲まれ四面楚歌。織田方の準備が整わないうちに、スピード勝負で、ここは、一気に信長のいる安土を攻めましょうぞ。
ふむ。まぁ、そう慌てるな。安土はそう簡単には落ちん。ところで堀内部隊は、京に向かうまでに港の占拠をするように命じてあるな。
へぇ、兄じゃ、大阪湾一帯、淡路島の港も占拠して制海権を手にしてから京に合流する手はずじゃ。彼らの水軍力はたいしたもんじゃ。
うん。よく交渉してくれた。感謝するぞ。
あたりまえのことをしたまで。兄じゃ、そんなことより、ここからが勝負じゃ。
ふむ。大阪を落とした鈴木家が織田の武将、秀吉の大軍をしばらくはふせぐじゃろうが、時間の問題で鈴木家も滅亡じゃろう。
越中、越前の方から小谷城経由で大軍が安土に入る前に、また、大和からの大軍が京に押し寄せる前に、なんとか、もう一度奇跡を。
うむ。安土は信長の本拠。堅い城じゃ。閉塞作戦をする。そして、小谷城を落とす。越中越前からのロジスティクスを断つのじゃ。
兄じゃは、戦略の天才でござるな。

1583年2月 頼綱軍、京の全軍を引き連れ、織田家の安土城にむかう。
1583年3月 大阪の鈴木家から金513の貢ぎ物の申し出があり受け取る。
1583年4月 大阪の鈴木家から同盟の申し出があり受け入れる。
1583年5月 織田家の中国攻略方面軍主力が姫路城から大阪に戻ってくる。
1584年6月 織田の安土の閉塞に成功。
1584年7月 安土を閉塞したまま、小谷城攻略にかかる。
1584年8月 京をたった関(せき)率いる一人部隊が越中・越前から来る大量の物資を次々と押収。
1583年9月 小谷城を姉小路軍の2部隊が包囲。
1583年10月 小谷城を姉小路軍が総攻撃。小谷城陥落。
1583年11月 越中越前方面、さらには、岐阜からの輸送部隊を小谷城周辺で次々拿捕する。
1583年12月 姉小路軍、輸送部隊拿捕のため全軍城外にでていたが、港の占拠の後、その勢いで、織田の建部山城をめざす。

1584年1月 
戦略会議
発言者 内容
さて、安土の閉塞を続けながら、北から落としていく作戦は成功しつつある。これも鈴木家が秀吉部隊の中国大がえしを防いでくれているおかげじゃ。
兄じゃ、間者の報告では、大和の大軍が京を奪い返しにくる準備をしているそうじゃ。織田の大軍が大和を出てからではおそい。ここは、全力で、大和の織田軍と会戦をせねば。
ふむ。大和の織田軍は1万8千と聞く。我が軍も織田のロジスティクスをずたずたにして、今や総兵力5万を動かせるようになっておる。京攻略からのリスキーなベンチャー戦略が大いに成功した結果じゃ。兵は拙速を尊ぶじゃ。このまま主要な城、建部山、岐阜、大和と落としていき、そのころ、鈴木家が持ちこたえられなくなり滅ぶじゃろうから、それから、大阪を落とすか。安土は時間の問題で落ちる。畿内は制覇できる筋道がみえてきたぞ。

1584年春 姉小路の先陣、建部山城外で織田軍と交戦。会戦状態となる。
1584年7月 姉小路頼綱本体、建部山城を総攻撃。建部山城陥落。細川忠興は登用され、細川藤孝は斬首される。
1584年12月 姉小路頼綱は堀内隊とあわせ7000名で安土に総攻撃。長きにわたる閉塞、兵糧攻めのため織田家304人の兵は1850名を撃ち殺すという善戦をみせるも、多勢に無勢。城を枕に討ち死に。信長は斬首。織田家は嫡男の信忠が継ぐ。


1585年1月戦略会議
発言者 内容
とうとう信長の首をうちとったぞ。上洛してからわずか2年。電撃作戦であった。攻めるに難しい安土城を閉塞して、北から攻略。ロジスティックスを破壊できたのが大きい。闘わずして兵や食料、武器弾薬を手に入れられたのも、スピード作戦のおかげじゃ。織田軍にとっては、まったくの寝耳に水状態、我らの速攻は、歴史上まれにみる電撃作戦じゃなぁ。
歴史上、我らのような寡兵で、大国相手に、それもこの超短期間でここまでのことを成し遂げた組織はなかったのではないでしょうか。
ふむ。今や、我らが総兵力はおよそ8万。信長亡きあとの織田家は、およそ14万じゃ、総兵力では半分強の実力まできておる。この勢いで、岐阜、大和、そして、大河内を落として、名古屋、雑賀と軍をすすめるぞ。

1585年3月 大和郊外で織田と姉小路が会戦。
1585年3月 尾張の織田が徳川に攻められ、陥落。
1585年3月 岐阜を攻めた姉小路軍、全滅。
1585年4月 大阪の鈴木家、織田に攻められ城陥落。鈴木家滅亡。
1585年4月 姉小路側の堀内善治隊2500名が大阪城の攻略を試みるも全滅。
1585年5月 姉小路、岐阜攻略軍全滅。
1585年6月 姉小路、岐阜攻略軍全滅。
1585年6月 姉小路頼綱および堀内善治の7500名が部隊が大阪城を攻略。大阪城落城。
1585年7月 姉小路、建部山城を織田に奪われる。

姉小路家 兵士数 8万535人 
織田家 兵士数 13万8312人 
徳川家 兵士数 2万6788人 
上杉家 兵士数 5万6954人 
武田家 兵士数 1万8367人 
真田家 兵士数 1万5820人 
長宗我部 兵士数 6万5092人
毛利家 兵士数 5万2308人



1585年10月 姉小路頼綱、岐阜城を攻略。織田信忠は斬首。織田家は津田信澄が後継者となる。



1585年10月 戦略会議
発言者 内容
とうとう織田信忠をしとめたぞ。残る残党は、そのうち、内部分裂するじゃろう。
さすが兄じゃ。しかし、残党といえども10万を超える大軍団。さらに、速攻の効果もきえ、準備万端整っている集団ですから侮れませんぞ。
ふむ。しかし、我が軍がこれまで成し遂げてきた功績を考えれば、もはや、天下統一も見えたといえるぞ。大阪、京、安土、岐阜、小谷、飛騨の6カ国を領有する我が方に向かうところ敵なしじゃ。この勢いで難儀している大和は方面軍に攻略させ、わしは、尾張の家康を攻めるぞ。


1585年11月 大和郡山城の筒井順慶が独立して大名となる。
1585年11月 大河内城の神戸具盛が独立して大名となる。

1585年12月 津山城の石田三成が独立して大名となる。
1585年12月 八上城の浅野長政が独立して大名となる。秀吉出奔。
1585年12月 姉小路家の大和郡山城攻略隊4大隊が城に突入。しかし、城の守りが堅く、1万の将兵撤退。
1586年1月 姉小路家の大和郡山城攻略隊4大隊が城に突入。城の守りが堅く、95000名の将兵のうち多くが命を失うが、筒井家を滅亡させることに成功。
1586年1月 姉小路家の名古屋城攻略隊3大隊が徳川家の守る城に突入。きわどい戦いをものにし、城を落とす。




発言者 内容
大和攻略の一度目の突入の失敗は、大きな痛手じゃな。上洛以来これほどの大軍を失ったことはない。
力攻めができるだけの国力があります。姉小路家はもはや盤石。親方様の戦略がよいので、戦術レベルの戦闘など、どうということはありませぬ。
いまや、我が国は、この日の本一の軍事勢力じゃ。織田を継いだ津田家は分裂により、我が方が兵力では上位にたったぞ。
兄じゃ、ところで、兄じゃも年じゃ。後継者のことをきめておかなくては。今、兄じゃにもしものことがあれば、我が方も、織田家のように分裂状態となりましょうぞ。
そうじゃな。わしは、この年まで独身じゃ。そろそろ結婚して、子づくりでもするか。
知的な女性になさりませ。

1586年2月 徳川家より同盟の申し出があり、受け入れる。
1586年2月 大河内の神戸氏が寿命のため他界。跡継ぎがいないため空白地となる。

1586年3月 大河内に姉小路頼綱率いる5000名が入城。


1586年5月 織田の雑賀城を姉小路軍が包囲、攻め落とす。



1586年6月 畿内をほぼ制圧した姉小路家の総兵力はいまや11万、一方、織田を継いだ津田家は5万を切り、東北の佐竹家よりも小さい勢力となり、
姉小路家の天下統一も時間の問題となった。大きな勢力としては西の毛利5万、島津4万、津田4万7千、佐竹5万、伊達5万が残るだけであった。




 


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